「間違い」というのは、多くの人の目を引き付ける。「間違い」に敏感な人ほど、引き付けられすぎてしまうもの。 しかし、本当に目を向けなきゃいけないのは、「間違い」に発展する手前段階だったり、やってしまった人の心・人間性の方だ。 「間違い」を正すのは当然のことで、同じようなことがまた無いようにと反省を促すのも、流れとしては正しい。 でも、それにばかり躍起になっていては、根本的な解決にはならない。たとえ、二度と同じ「間違い」を起こさなくても。 「反省しなきゃいけない人の心と向き合う」よりも「事態の善悪・事態の収束」に注力していることになるからだ。 「間違い」は誰にでも起こり得るし、大抵は起こしたくて起こしているわけではない。 (わざとだったり、取り返しのつかないことを平気でやったなら、擁護する気にはなれないので、この話からは除外する) だからこそ、事が起こった時に即「誰が悪いの? あんた? なら、謝らなきゃでしょ!」と目じりを吊り上げるのではなくて、 「何がどうなってこうなったの?」と落ち着いた声で話しかけて、当事者に心の整理をさせるところから始めた方が良い。 状況整理を進める中で、倫理的・道徳的・社会的・その他含め、多角的に事態を捉え直して自省できれば、他者がきつく言わずとも次が無いようにするものだ。 この心の整理に必要な思考方法を子どもの内は未熟だから、大人に教わる。もしくは、子ども自身が成長とともに自分なりの思考方法を見つける。 反省までの流れを、「一番悪くて、ごめんなさいしなきゃいけない奴は誰だ」と犯人捜し紛いに発展させたり、 「ここで互いにごめんなさいすれば全て丸く収まるのだから、ごめんなさいしようね」と体裁のみ整えるのは悪手だと思う。 どちらのやり方をしたって、「間違い」を謝らせるのに必死になっているだけで、それが悪く伝わった結果として、 「その場しのぎのごめんなさい」で考えない人が誕生してしまう。 「間違い」は少ないに越したことは無いけれど、「間違い」が一つもない人間は、人間らしくないって思う。 常に不完全な生き物だからこそ、磨く。磨かない、磨き方が誤っている人は、程度や状況が違えど、「間違い」を繰り返し起こす。 上手く磨ける人で居たいと思う。